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お知らせ・つらつらノート一覧
☆ 「つらつら」とは、念入りに、つくづく、という意味の言葉です。
自分って、一体誰なのでしょう ?
この世界の存在はすべてが対の関係で成り立っている、という事でいえば、自分という意識は他人との比較の対照から生じてくることになります。色の世界に白だけしかなかったら、それは白と呼ぶ必要もないように、この世界に自分しかしなかったら、自分という存在を意識することもないのかも知れない。「他」が存在するゆえに、「自」を自覚するというワケです。
ということは、自分という意識は、自分の自覚から発しているようであっても実はそうでなく、他人の存在意識との関係から生じていることになりますし、自意識の活動もそのような他人との関係性を土台にしたところから発生しているのかも知れない。
「他人がいなければ自意識もないのか ? 」、という観点からつらつら考えてみると、「他」も「自」も意識しない、自意識のないという状態というのが、自分が何も思わない、思わない故に何も考えない人間だとしたら、どうでしょう ? 生きていることの意味も考えないし、思うことがないとしたら…。 比較する食べ物があれば、食べ物の美味しい、不味いは解るでしょうが、より美味しいものを探求するようなことはしないかも知れません。こういう状態を考えてみると、とにかく「自」に関心がないという事なのでしょうから、「他」に対しても関心がないでしょうし、宇宙がどうなっているかなんて、全然思わないのではないでしょうか。 そう考えてみると、もしかしたら、本能だけで生きている動物の感覚って、そういうものかも知れない。
他人を意識するという事 (他人を無意識的に意識する、という事も含めて) から始まって、そこから、自分という存在を意識し、自分とは何かと考えたり、そこからまた自分と関係している他事について想いを馳せたり、そのような事の積み重ねによって自分というものの意識の世界が膨らんでいく事を考えると、他人を意識するというその事がそもそもの発端であり第一ポイントであるとしたら、他人が存在するという事は、なんともスゴイ事であると思えてきます。
「人間は一人では生きられない」、などという言葉をよく耳にしますが、誰かが何かをしてくれているから、というのではなく、何もしなくてもただそこに存在しているというだけで、この自分の意識の世界が成り立っている、と考えると、なんとも不思議です。
もっとも、他人を意識する、といっても、意識的に意識するよりも先に、殆ど無意識のうちに認識している、その無意識的な働きなのですから、私たちがまったくその事実に気がつかないというのも、全然不思議な事ではないのですが・・・。
他人という存在、これを普段は当たり前な事として捉えながら、時には人間関係の難しさや煩わしさによって他人から離れていたい、一人になりたい、などと思うこともありますが、もしもこの存在がなくなってしまったら、行き着くところは人間も本能で生きているだけの動物と同じようになってしまうかも知れないのか、と考えると、・・・なんとも複雑な気持ちになってしまいます。
人間も動物のようであれば、確かに悩みなどはないかも知れないけれど、その変わりに生きる歓びが持てなくなってしまったら、それでは生きていることがあまり面白くないような気がしてしまいますが、しかし何も思わなければ、面白いも、面白くないもありません。
自分という意識を持ったり、何か面白いと思ったりすることは、つまりは他人という存在から始まって、他との繫がり、コミュニケーションがあるから生じているものであるようですが、それにしても、もしも自分の周りから誰もいなくなり、一人になって、他人という存在とのコミュニケーションができなくなってしまったら、果たして自分という感覚がなくなってしまうのでしょうかねぇ… ?
ただ、そうなってしまっても、わたしたちの想い(意識)の中、過去の記憶の中には、誰かしら心を通わせた人の存在というものがあると考えると、たとえ人っ子一人いない、まったくの孤独の状況下におかれてしまったとしても、意識の中で人との関係がなくなることはないし、自分という意識がなくなってしまうこともないのではないか、と思うのです。
しかし、少し別の角度から考えてみると、周りにあまり人がいないで済む生活というものや、何も考えないで一日一日を過ごすことができる人生は、なんと静かで平和であろうかとも思ってしまいます。そういう生活に疑問も抱かなければ、おそらく寂しいと思うこともないでしょう。それに、自分という意識感覚が希薄であれば、もしかしたら他人を見る眼も、現代を生きる私たちとは違って、用心すべき存在(或いは、敵対的な他者 ? )として見ることはないかも知れない。他者に対しても、あまり区別する感覚なく、半ば自分の分身のように思うでしょうか ?
・・・
ちなみに、禅の世界などで、自己の追求の果てにあるのは「無私」である事を説く禅士がおります。
前文での、他人と自己という対称的な関係とは違い、他人も自分も無い、もともと私などというものは無い、という世界観です。
私など無いという観念で観ると、他人も無いのであって、乃ち自分も無いのであって、それってつまり何なのかと考えると、自分もまた他であり、他人もまた自である、とする考え方なのでしょう。
この辺りのことをつらつら考えるというのも面白そうですが、何やら難しそうです。またいつか書ければと思います。
☆ 「つらつら」とは、念入りに、つくづく、という意味の言葉です。
果たして、人間の意識は永遠に不滅なものなのか ?
しかし本当に、人間の意識は、果たして不滅で永遠のものなのでしょうか ? 私たちの日常的な意識からすれば、私たちの意識は死ねば消失してしまう、というのが一般的です。不滅で永遠だなんて、とても想像できませんし、容易には納得できません。
ハムレットではないけれど、肉体が死んでも、それで終わりでないとしたら、と考え始めると、コワイですよね。考えて解ることではないのですが、「本当に、どうなっちゃうのか ? 」、なんて思ってしまいます。
私の場合、死がどのようなものであって欲しいかというと、どちらかと言えば、この意識が永遠に続くよりも、永遠の眠りに着くように、死んだら何もない真っ暗闇の方が断然いいように思います。いろいろな事があった一日を終えてヘトヘトになって布団に入って、もう何もしなくていい安堵感に包まれて深い眠りに着くように、決して誰にも起こされることもなく、意識を呼び覚ますような夢を見ることもなく、永遠の静寂の闇の中でゆっくりと静かに眠り続けていられるようであったら、どんなに幸福かというふうに思います。だけどそんなに都合良くこの人生が終われるものだろうか、とも思ってしまいます。
しかし、意識というものが情報というエネルギーの一種であるとすれば、エネルギーは物理学で証明されているように保存されるかも知れない訳ですから、形骸は消失しても、そのエネルギーの本質はどこかに保存されて消滅することはない、のだとしたら ? 仮に、「エネルギー保存の法則」の通りになったら、例え死んでも、『何か』が残るかも知れないんです。それは私たちが意識として感じているものとは、もしかしたら随分と違うものかも知れない。
意識というものを格段に解体した先にある、無意識の深遠な深さに通じるところのものであるような気がしますが、それを昔の人は、『魂』という言葉で伝えてきたように思えます。たまに、タマシイなんて迷信のような感じで否定する人がおりますけれども、生きている人間の複雑さ、人生というものの不可解さなどを鑑みて考えてみると、人間の想いというものも森羅万象の力の一形態であるとすれば、そのような迷信に似た訳の解らない特異的な存在も、ひょっとしてあるかも知れないと思えるのです。
そんなところまで考えてみると、人間って本当に不思議なイキモノだなぁと思います。
そのように思っている自分という存在が、そもそも不思議な存在であるわけです。
自分とは一体何か、という事を考え出すと、考えれば考える程に解らなくなってしまいます。
「自分とは一体何か」、とと考える時に意識する、その意識するという現象を考えてみても、何だかワカラナイ。養老孟司さんの著書の中に、東大の医学部の学生が授業中に、眠り薬が効く理由を教授に質問したところ、苦々しい顔で睨まれた、というエピソードがあって、要するに、医学的に何故眠り薬が効くのかを説明できないくらいに人間の精神の何たるかを説明できないのが、医学界の現状であるとの事なのです。
果たして、この意識、精神とは自分のこの身体の中の一体どこにあるのか ? という問いに対しても、脳の周辺に由来して存在するようにも思えますが、精神とは身体の一体どこにあるのか、意識は脳のどこで働いているのか、という問題は、まだ謎のようです。何しろ、精神とは、非物質で、心とは何 ? 、愛とは ? 、などという人間の永遠の問いと同じようなのです。
この身体に秘めている生命のエネルギーとは、何なのでしょう ?
人間の身体の中で、肉体を成長させ、そして衰退へ導き、終いには抜け出て行くエネルギー。
何処からか来て、共に生きて、何処かへ行ってしまう。
細胞群を成長させる生のエネルギーと、細胞を死滅させる死のエネルギーは、まったく同じエネルギーのようです。
☆ 「つらつら」とは、念入りに、つくづく、という意味の言葉です。
情報って、一体何なのでしょう ?
情報って、一体何なのでしょうね。一体どこからやって来て、何をしようとしているのか。誰それがどうしたとか、何処で何が起きたとか、それが私たちに届いて、それでどうなるのか ? そうしてやがて社会を変えてゆくというのか、私たち人間がすこしづつ変わってゆくというのか。時代が変わってゆくというのは、それは情報の伝わり方によるものなのか。もしも、新しい情報が何も入ってこないままでいたら、時代や社会も変わらないものなのか。つまり、社会や時代という大きなものを変えているのは、私たちの間に流れている情報というものの力による現象なのか。 人々が会話したり、テレビを見たり、新聞を読んだり、本を読んだり、そういう事の連鎖が次第に変化の力となって、時には何処かで誰かが情報操作などをしながら、何かを変えるべく情報というものが流れていって、社会や時代や人々の意識の変化が起こっているという事なのか。
そのように考えると、情報というのは、何気ない日常の中で見たり聞いたり話したりしている事であっても、私たちが考えているよりもとても大きな力を持って、いつの間にか私たちの幸福や不幸を支配しているという事なのでしょうか ?
・・・
このように書いてしまうと、情報に支配されているだけのようですが、もしも自分を変えたいのなら、外からの情報に支配されることなく、己の変えたい方向へ情報を操作してみるのも、情報の使い方ですし、自分の裡なる情報を如何に自己流に創ってゆくか、という次第かとも思えます。
今世紀になってからというもの、それまで情報の多くを占めていたテレビやラジオ、新聞や書籍の時代は、だんだんと過去の遺物のようなものになり、情報手段のメインはインターネットの時代に変わり、更にネットを通じた小型コンピューター端末器との会話による情報化時代になろうとしています。
このようなネットの世界は、それこそ情報の世界です。世界中のたくさんのコンピューターで繫がった情報があっちからこっちから流れていて、必要な情報を捉えようと、多くの人が端末機器を操作している。文字や数字や図形で表される情報は、しかし流れている時は無形のものです。空中を飛んでいる電波、電話線や光ファイバーの中をどんな情報が流れているかは見えません。情報というのは物質ではない訳ですが、ただ物質の中を通って流れることができる。電波で飛んでくる情報も、それだけでは何も見えないが、物質(テレビやスマホなどの端末機器)を媒体にしてはじめて、それがどのような情報なのか見える形となって現れる。物質に関与してこそ、情報が形になって、そこからいろいろモノ(人の行動や、機械や)を動かすエネルギーとなる。
ですから、情報というエネルギーの性質として、物質のある所には、何らかの情報が帯びていると言えるかも知れません。何らかの情報を帯びているから、他の物質に帯びている情報によって多様な変化の連鎖が起こるとも考えられるわけです。
そのようにして考えてみると、花でも、石でも、気に入ったアクセサリーでも、何故か妙に気に入っているものというのは、何らかの形で私たちの意識や気持ちの中にある情報と情報交換をして、私たちの意識を動かし、行動を促しているのかも知れません。
時に、何かを無性にしたくなったり、食べたくなったり、何処かへ行きたくなったりするのを思うと、私たちの体を動かしている生命というエネルギーも、確かに何かの情報なのだと思うのです。しかし、何の目的のための情報なのでしょう ? この情報は、何に使うために私たちに備わっているのでしょう ? そんなことは誰にも解りませんね。未知なものなのでしょう。けれど、私たちはそれを持っている事実があります。 私たちは、一人一人がある種の複雑で厖大な情報を持っていて、その情報を形にするために肉体という物質を通して様々なエネルギーを代謝させているのではないかしらん … ( 例えば、飛行機を作ったり、絵を描いたり、人を好きになったり…)。
肉体がハードウェアで、精神がソフトで、とすると、私たちが持っている記憶の情報やこの意識も、ソフトです。 PC だったら削除すれば記憶は消えますが(コンピューターに詳しい人によっては、削除しても消えるわけではない、という人もおられますが)、私たちの意識…潜在意識にある記憶というのは、埋もれはしても、完全に消去というのは難しいもののようです。
意識を情報として考え、エネルギーとして考えると、物理学の「エネルギー保存の法則」の通りに、不滅なものであるかのように思えますが、エネルギーといっても色々な形態のものがあり( 磁力エネルギー、電気エネルギー、化学エネルギー、重力エネルギー、などなど )、エネルギーであればすべてが保存されるという証明はされていません。しかし、地球が誕生し、生物が存在するようになり、次第に多種多様な生命が育まれ、それぞれの生物がその生と死の連鎖の中で代々受け継がれ進化して来た「遺伝情報」というものを考えると、その情報の保存性の高さを否定することはできないのではなかろうかと思いますし、そもそも身体を作る遺伝情報を動かしているのが、無意識的な身体の働きという解釈であれば、意識や無意識の情報としてのエネルギーというものも、身体の遺伝情報と同じように保存性の高さを有するものであるかと思えるのですが・・・。
☆ 「つらつら」とは、念入りに、つくづく、という意味の言葉です。
ときどき、人間って一体何なのだろう、と思うことがあります。一体、何のためにこんなことをしているのか。結局、何を求めているのだろう、と漠然と考えてしまうことってありませんか ?
求めるものは、それが手の内に入って暫くすると何やら当たり前のものに思えてきて、次のものを求めている自分に気がつきます。求めているのは確かに自分なので、その時は本当に自分が求めているように思っているのですが、それを繰り返してゆくと腑と気づくのです。本当は自分は何を求めているのだろうか、と。現れては消えてゆく欲求はただ単に生理的 ( もしかすると動物的 ? ) な衝動でしかなかったのではないか、と。
これはヒジョーに空しい気持ちがします。まるで頭を使っていないみたいでクリエイティブじゃない。若いうちならまだそれも許せるように思えますが、いつまでもそんなことをしているのはどうも精神が未熟過ぎるのではないか、と思うのです。肉体的な生理現象は致し方がないとしても、精神的な生理現象については、レベルのようなものがあるように思えます。
しかし、果たしてその精神とは一体どこにあるのでしょう ? 脳の周辺に由来して存在するようにも思えますが、一体どこに精神があるかはまだ謎のようです。何しろ、精神とは、非物質なのです。
精神は、やはり、肉体の中にあるのではないか ? 「そんなのはアタリマエだ」と言われそうですが、しかし、精神とはやはり物質ではないだろうから、肉体という物質そのものとは違うものだろう 。 …ということは、肉体というのは、単なるアタリマエの物質ではないことになる。物質であって物質でないモノ。つまり、そのモノの中には眼に見えない厖大な情報が入っていて、血液やホルモン物質などといっしょにグルグルと活動しているのではなかろうか、と。
そのような見方をしてゆくと、我々人間というのは、非常に不可思議な存在ですね。
人の身体の中にある「情報」
医学書などをめくると、ヒトは 60兆個もの細胞から成っていて、身体の 70 パーセント が水分でできている、などと書いてあります。60兆個もの細胞が集まっているというのが、どういう事なのか、はっきり言ってよくわかりませんですよね。例えばそれをお金で例えてみると少し実感がもてそうです。
例えばあなたの子供ができて、オギャアと生まれた日から100年間、毎日毎日 1,000万円のお小遣いをあげたとしましょう。1,000万円ですよ。しかしそれを 100歳になるまで毎日毎日貰ったとしても、3,650億円くらいなんです。60兆円貰うとしたら、ナント、16,400年間も生きてお小遣いを貰わなければならないんです。今が西暦の 21世紀ですから、185世紀まで生きるんですね。 なんだか草臥れてしまいそうな感じがします。
例が卑近だったかも知れませんが、とにかく 60兆という数はそれほどに厖大でありまして、それだけの数の細胞を私たちは皆持っているわけです。その細胞のひとつひとつが活動しているわけです。それは眼に見えない分子の世界ですが、その世界もまた、私たちの世界と同様に自然の摂理のもとで営まれているものです。
さて、その細胞というのは一体どのようなモノなのか ? 細胞もまたそれ自体で1つの生きものです。ちょうど人間の身体と同じように、栄養を吸収したり、排出したり、自体を守ったりする働きもします。
細かい、ムズカシイ事は医学書を見てもらうことにして、それらの働きを統率している核のところに、DNA という情報の集合体があります。二重のラセン構造をしていて、たった 4 つの種類の塩基という物質の組み合わせによって、細胞の組成に必要ないろいろな物質を生産する元の情報源です。このラセンの格子が1個の核の中に 30億対もあるのです。30億対の情報を持った細胞が 60兆個、一丸となって活動しているのが、実際の、私たちの体なんです。しかもそれだけの情報を持っていても、私たちが意識しているのはひとつのスクリーンだけで、そこに見られる情報というのは、身体全体の情報から見たら、ホンの微小なものでしかないということですね。その他の大部分の情報というのは、私たちの意識の下で、漠然とした無意識の働きとして、私たちを動かしているように思えるのです。
私が悲しみや悩みに陥って、どうしてそんなに悲しいのか自分でも解らない時、私の中で私をそうさせているものは、多分、以上のような厖大な情報による無意識の世界の、漠然とした記憶による現象なのではないか、と思います。私たちの日常的な意識では感知できない厖大な記憶を私たちは皆持っている。それらのものが、私たちをある意味で支配しているのかも知れません。
私たちがこの世に生まれた時には、親からの遺伝情報を含めて、もう既に体の中にたくさんの記憶情報を持っていたことになりそうです。体の複雑なメカニズムを制御しているプログラムはすでに動いていて、それもまた生命の不思議な現象である訳ですが、そのように考えると、産まれてきた赤ちゃんは、既に何らかの記憶情報をダウンロードしてきている、と言ったら、妙な感じがします。
最近の小児心理学などでは、お母さんのお腹の中にいた頃の記憶を語る子供たちを紹介している本などもあります。出生前の胎児にも既にある程度の認識ができる意識と、短いけれど暫定的な記憶力がある、という意見もあります。
しかし思うに、そのような記憶って、一体どこから来たのでしょうね。
☆ 「つらつら」とは、念入りに、つくづく、という意味の言葉です。
日頃、わたしたちが、自分たちの置かれている現在の現実から如何に眼を背けるようにして過ごしているか、その事を「どうしようもない」と嘆いていた人物がいます。その人の名は、「人間は考える葦である」という言葉で有名な、パスカルです。
「わたしたちはよく、全くなきにも等しい時の事を夢のように描き、現実に存在するただ一つの今現在の時を、うかうかと見過ごしてしまう。
それというのも、普通、今という現在は、わたしたちを痛めつけることが多いからである。
わたしたちが現在を見まいとするのは、現在の現実というものが、いつもわたしたちを苦しめるからである。
現実の苦しさのために、わたしたちは、まず現在のことなど考えていない(現実のことなど考えたくない)、と言ってよい。
思いのほとんど全てが、過去と未来によって占められている、といっても過言ではない。
過去や現在はわたしたちの手段に過ぎず、未来だけがわたしたちの目的で、考えるのは、いずれ先の未来のことばかり。
現実の問題を常に避けているのであれば、わたしたちは、少しも生きていない、生きているとは言えない。ただ、生きようと望んでいるだけである。
人はつねに未来に生きているのであって、現在には決して生きていない。
いつも幸福になりたいという姿勢だけはあっても、わたしたちがついに幸福になる事ができないのは、どうしようもないことである。」
パスカルは早熟の天才と呼ばれ、数学や物理といった分野においても定理の発見などをしていますが、子供の頃から体が弱く、病弱で、40歳という年齢で病死しています。そういう境遇にあったせいか、晩年は宗教 ( 聖書の探求 ) の方面へ没頭していったということで、上記の言葉も、パスカルの死後に本となった 『 パンセ 』 の中の 「 空しさ 」 という章にある言葉の一つです。自分の体の弱さや病気に対する悔しさや不条理感が、彼の人間に対する見方の根底にあったように思われます。
気づかされてみると、私の場合も過去や未来の(あまり必要でない)どうでもいい雑念に囚われたり煩わされたりしていることが多く、如何に現在という時間を無駄に過ごしていることか ! という事がわかります。そうは思っても、今現在のこと、現実のことに向き合って真剣に考えようとすると、非常な集中力を必要としなければなりません。
パスカルの、 『人間は考える葦である』 という文章に、「今を生きて真剣に考えることに於いてのみ人間である」という言葉がありますが、どうしようもない事にもめげずに対処してゆこうとする厳しさが窺われます。
自身の病と死を傍らに見つめながら、現実と向き合い真剣に考えて生きることの厳しさを通して、先にある死を祝福しようとしていたのかも知れません。
今の自分を駄目だと思っているとしたら、それは、この世界の摂理( 自然界を支配している理法 )から遠く離れている。
人間の真価は、人生の良い時期よりも、寧ろ駄目なように見える時期で明かされる。
その時期が大切で肝腎なのだから、駄目である事は、本当は駄目ではない事なのである。
事実は駄目であっても、真実は違うところにあり、そういう状況の時期こそ人生の大事処なのだ。
だから事実はそうであっても、現在の駄目である自分を簡単に認めてはいけない。
駄目である事実だけを、そのまま自分の懐に入れてしまえるくらいの度量が必要である。
むしろ、マイナスを抱えている事こそをプラスの要因と受け取って、密かに胸を張って肯定していることだ。
自分を駄目だと思っている自分という存在は、一体何との比較によって駄目であるのかを考えなければならない。
自然界では、本当に駄目なもの、必要のなくなったものは淘汰されてゆきます。
この人生の本質は、自らの存在によって生じているのだから、自らの存在がこの世界(環境)にとって必要であれば、それは環境が自らの存在を許容している証左であって、つまり淘汰を免れているのですから、駄目という事実はないことになる。
何事も、この現実をして、今日現在に生きて存続しているものであれば、たとえ事実的に駄目な状況にあったとしても、それは一過程の出来事に過ぎず、プロセスでしかない。そのプロセスを結果として受け入れてしまうことで間違いを犯せば、現実にそれが結果となって、本当に駄目になってしまうのです。
私が確信的にこのようなことを言えるのは、この人間という存在が、宇宙をも内包するような精神のダイナミックさや、生命という不思議な働きを持つ身体の、神懸かりとも壮大とも言える精巧さや、そして何故この世界に出現しているのかという経緯の答え様がない不可解さに、謂わば驚愕しているからに他ならないからです。
人間という存在について、いろいろな方面から学んでいくと、この人間という存在ほど、摩訶不可思議な存在はありません。
その人体構造は、宇宙にも通じる神秘的な不可解性を持っていて、その姿は、何よりも美しく、微笑ましいものでありながら、その行動と心の思惑は、もっとも美しいところからもっとも醜いところまでもが反映されていて、或る意味、、美しくあっても醜くあっても、優良であっても駄目であっても、どちらでも当たり前でいられるという不可解な存在であって、しかしその両方が一個の人間の中に共存している存在のダイナミックさ、ダイナミックレンジの広さを思うと、簡単に結論をつけられる存在では決してないということになる。 こんなに精巧で巧みな構造を持った存在が、簡単に駄目になる筈がないのではないかと思えてくるのです。
駄目だと思っているのは、それも誰よりも本気で駄目だと思っているのは、実際は他ならぬ自分であるというのが決定的なのであって、つまりは、その自分が、自らが持っている精巧で英知に満ちた存在の価値を、実はあまりに解っていないだけなのではないか。 いくら他人に言われようと、自分は駄目じゃないと思えれば、本当に駄目になる訳がないのではなかろうか、と思えてくるのです。
しかしその事実に気づくには、「 自分は駄目だ 」というところまで行かないとなかなか気づけない、というのが、この世界の摂理であるようです。
人間の構造には、自身の身を守るための機構があります。
痛みもそのひとつです。しかし、その痛みの度合いのスレスレなところで防御することができず、身を守ることができない場合もあります。
身を守ることができなければ、当然、体も心も、傷を負ってしまいます。
今回は、心の傷の話です。
人は、体を傷つけられれば、痛みを感じます。もしも、打たれたり、蹴られたり、何かにはさまれたりして、身体が危害をこうむっているのに、それを止めることができなかったら、打たれ続けてそのうちに気を失い、死に至ることもあるでしょう。身体の損傷に対して痛みの感覚を感じるからこそ、痛い思いをしたくないからこそ、相手をよけたり、逃げることによって災難を回避し、自分という固体の存続を守ることができる訳です。
身体に悪影響を与える危険な力は、そのようにして回避できます。しかし、人は言葉や見るものによっても、痛い思いをします。心身に対してそれが強烈な場合、本当に胸や頭に刺されるような痛みや、激しい頭痛や嘔吐を覚えることもあります。視覚や聴覚といった感覚の神経が、神経性の痛みや不快を連鎖させるのです。耳に聞こえる言葉や、眼に見えるものによっても、物理的肉体的な暴力と同じように、人はとても傷つき、消耗するものなのです。
しかし、耳に聞こえるものも、眼に見えるものも、耳を塞いだり、眼を閉じたりすれば、少なくともその時点から回避することもできます。聞いてしまった言葉、見てしまったものはどうすることができなくても、耳や眼を塞いでその場から逃げられれば、それ以上の被害は防げます。
さて、そうやって耳を塞ぐことができる状況であれば、対応の仕方もあるのですが、どうにもできない状況というのもあります。つまり、大きな声で言われたりすれば、耳を塞いだり、逃げることもできますが、非常に聞き取りにくい小さな声であるとか、ヒソヒソ話のように、いったい誰に向けて言っているのか判然としない状況で耳に入ってくるものであると、どうしようもないというか、逃げることもできない訳です。できないというよりも、耳を塞ごうとも思わない訳です。 逆に、こともあろうに、そのヒソヒソ話に無意識的に注意が向いてしまって、その場から離れられず、耳にどんどん入ってくる、という次第になってしまったりするのです。その時にはその言葉が自分を傷つけているものとは判別できなくても、耳にはどんどん入ってきて、脳に送られている・・・。
聴覚というのは、例え眠っていても、しっかり働いている場合があるということが、近年の脳科学の実験などで解ってきていることのようで、 耳に入ってくる情報は、例え本人が聞いているようには思えない状況においても、脳にはちゃんと届いているケースがあるということです。それは、その人の意識の奥のところで注意が向いている、脳が関心を持って聴いている、ということなのかも知れません。
思うに、心には外部からの危険な情報を処理する「網のようなフィルター」があって、視覚や聴覚といった感覚神経を通して体の内部に入ってくる情報の中に自分を傷つける因子があると、そのフィルターに引っかかり、そうすると痛みや嫌悪感の信号となって脳の制御装置が「遠ざかれ」 という思いを発っすることで、自己の心身を守る手段を取ろうとするのではないか。 そうやって、中傷・誹謗の因子の侵入を監視し、危険な因子の侵入を防いでいるフィルターのような装置があるのではなかろうかと思われます。しかし、その因子が五感の自覚レベルよりも少し小さかったりすると、例えば声が非常に小さかったり、眼に見えるものでも瞬間的で、些細なものであったりすると、フィルターに引っかからずに素通りしてしまって、身を守る手段を取ろうとすることもなく、いつの間にか中傷の因子を取り込んでしまう。 取り込まれた中傷の因子は、自覚のないままに脳神経の奥深くに積もり、やがてそれが積もりに積もって、意識下の心の領域を傷だらけにしてしまうのでしょう。ある程度の大きさになった頃になって、傷みが自覚に上ってくる。
ある程度大きいものよりも、反って小さいものの方が見逃されやすいのです。感じるものが小さければ、まぁこのくらいはガマンできるだろうとか、大丈夫だろうとか、さして気に止めないで我慢してしまう場合がある。しかしそういう性質のものだからこそ、心の奥深くに入りやすく、そして原因の痕跡としても見つけ難く、後から処理することが困難なのです。何か気に障る事を言われているようでも、「 まぁ気にしない、気にしない。 」 というように切り替えられるのは、まだ心に余裕と余力があるうちです。 心にエネルギーがあって、神経が疲弊していないうちは、転換がきいて、気にしないでも済みますし、不要なものを排出する(忘れられる)力も持っている。しかし、心身に疲れが溜まっていたり、煩わしい事が重なっているような時期には、心の余裕も余力も乏しくなっていがちなので、そういう時に悪意のあるヒソヒソ話とか、逃げられない状況で神経に障ることに耐え過ぎてしまうと、心はその時からゆっくりと深く病んでいってしまうのではないかと思うのです。
ヒソヒソ話を聞いていると、なんとなくイヤーナ感じがするのも、心の警告の反応なのかも知れません。
このようなことを考えてゆくと、心の働きというのは複雑なものですから、本人がもうどうしようもない程に追い詰められて、 「 もうゼッタイに聞きたくない ! 」 という強い意識を持つに至ってしまった場合には、心の無意識の働きで聴覚を遮断するということもあり得るのではないかと思われます。何か、本人が非常に傷つくようなことを言われ続け、それに耐えに耐えているうちに、いつの間にか、あれもこれも聞きたくない、という状況に陥ってしまったら、固体の存続を守るために、無意識的な自己防衛本能が働いて、心は聴覚を閉ざすかも知れない。心はあらゆる感覚に繫がっているので、それは聴覚に限らず、他の感覚に起こっても不思議ではないでしょうが、しかしそれは本人が意識してしている事ではないし、心の無意識の働きなので、本人にも理解できない、周りの人間にもなかなか理解できない困った事態になってしまうのです。
原因のはっきりしない突発性の難聴や急性の弱視などのなかには、もしかしたらそのような背景があるケースもあるかも知れない、と思うことがあります。
健康って、どういう事なのか、と改めて考えることがあります。
元気でいること。病気をしないこと。明るくて、いつも朗らかでいられること。・・・。
健康的というと、やはり、前向きで、力強くて、明るい印象を抱きます。しかし、健康的な外見の良い印象を他人に対しても自分に対しても意識するあまり、心身の内側が疲れてしまうところもあるようで、逆に不健康になっているという人も見かけたりします。
健康という字から見ると、「健」という字は、「すこぶる」とか、「すごく」という意味で(だから「健忘」という言葉は、「すごく忘れる」という意味なのでしょうね)、そして、「康」という字は「やす い」という読み方もあって、「やすらか」「おだやか」という意味があると字引に載っています。
つまり、健康とは、「すごく穏やかでいて、安らいでいるような状態」を云うものらしい。動作が早い人でも、穏やかでゆとりがあるような人が、そもそも健康な人だという訳です。 確かに、快活でテキパキしている人なら良いのですが、短気でいつも気忙しく、ゆとりらしきところがまったくないような人といっしょにいると、後で疲れてしまって、身体に悪いような気もします。
このような意味合いからすると、健康、健康的というのは、健康になろうとしてアレコレと忙しなく何かをしたりしない、という事でもあるのではなかろうか、と思ったりするのです。
☆ 「つらつら」とは、念入りに、つくづく、という意味の言葉です。
見えるものより、見えないもの。
聞こえるものより、聞こえないもの。
解っているものより、解らないもの。
この世界で圧倒的に多いのは、後者だ。
この世界の認識を、見えるもの、聞こえるもの、解るもので満足していると、
それは結局、この世界のことが、「見えている 聞こえている 解っている」とは言えない、ということになりそうだ。
真実が、「見えないもの、解らないもの」にあるなら、我々が不条理と思って理解しているものも、もしかしたら不条理ではないのかも知れない ?
今回は、私の敬愛するオステオパシー医 ロバート・C ・フルフォード が、何かに行き詰った時に読むという ウォルター・ラッセル の言葉を載せてみたいと思います。
~
人間は、何であれ為すのは不可能だ。人間の最大の妄想は、「自分は為すことが出来る」と思い込んでいることだ。人は皆何か出来ると思い込み、またしたいと思う。だから誰もが最初にする質問は、「私は何をすべきか ? 」、となる。
しかし実際は、誰一人として何も物事を為し得ないし、また出来もしない(成し得ない)。これを先ず理解することだ。すべてはただ起こるのだ。人間に生じること、彼によって為されたこと、彼から出てくるもの、これらはすべてただ起こる事なのだ。人は生まれ、生き、死に、家を建て、本を読み、それは実は自分が望んでいるようにではなく、起こるに任せているに過ぎない。
この為すことについての問題には、別の問題が関連している。つまり誰もが、他人は間違った行動をしている、物事を正しくやっていないと思っている。誰もが自分はもっとうまくやれると思っている。皆が皆、自分の見解や理論を持っていて、為すべきことが為されていないと考えている。実際は、すべてはなるようになっているに過ぎない。しかもそれは一通りしかない。すべてのものは他のすべてのものに依存しており、すべては関連していて独立したものは一つも無い。だから、すべてはそれが取り得る唯一の道を進んでいるのだ。すべてはそういうふうにして起こっていることなのだ。
~
そんなことはないだろう、と思う人は多いと思います。しかし、つらつらと考えてみると、彼の言っていることがなんとなく理解できなくもない。
例えば、何故、どんなに総理大臣が変わっても、一向に大多数の国民が求める住み良い社会というものが実現しないのか ? ある一部の限られた人たちにとっては問題のない良い社会ではあっても、格差や、差別や、貧困や、肉体的乃至精神的暴力が後を絶たないのか ? 何故、大多数の人が理想として描いている富の分配や社会の平等は難しいのでしょう ?
どんなに有能な人が一国の首相になったとしても、動かせないものがある。一生懸命やっても、為されないことがある。金力や、政治や、制度や、社会の仕組みだけでは、歯が立たない力がある。
「突き詰めると、人は、善悪というものに対して非常に無力であることが明らかになる。人は、ただすべてを受け入れ、それを乗り越えて生きることだけしかできない。」 ウォルター・ラッセル