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2019/02/17
【つらつらノート】 人間 この不思議な存在 ⑤

  

                               ☆ 「つらつら」とは、念入りに、つくづく、という意味の言葉です。

 

 

 自分という意識のない状態、 「無我、無心」という境地について


前々回の『つらつらノート』、「人間、この不思議な存在 ④」の終わりに、
・・・ちなみに、禅の世界などで、自己の追求の果てにあるのは「無我、無心」である事を説く禅士がおります。前文での、他人と自己という対称的な関係とは違い、他人も自分も無い、もともと私などというものは無い、「無私」という世界観です。私など無いという観念で観ると、他人も無いのであって、他人が無ければ、すなわち自分も無いのであって、それってつまり何なのかと考えると、自分もまた他であり、他人もまた自である、とする考え方なのでしょう。
この辺りのことをつらつら考えるというのも面白そうですが、何やら難しそうです。またいつか書ければと思います。

 

・・・ と締め括って書きましたが、今回はここで、この「無私」について、画家の横尾忠則さんが著書の中に載せていた、禅僧の井上義衍老師談話の一部を紹介してみたいと思うのです。
自分と他人との関係を認識する、もうひとつの別のところで、「自分も他人もない」という見識を持っている人物のお話です。

 


『 仏道の教えというものは、何も釈尊の教えじゃないんです。
誰にでも同じように存在しているものを、自分は持っていないと思って迷ってそれを外に求めているのを見て、釈尊は人のものを学ぶんじゃなく、自分のものを自分が本当に学んで知ってゆくという事を示して、それを仏道と名付けられたのです。
確実に自分で根底に達しますとね、今度は疑おうとしても疑うことができなくなるんです。

 

自我というものが落ちてしまうことを一度味わうと、自我のない自分を発見することができます。
自我なんてのはあるという思い込みなのであって、実際にはないんだから。
実際にはもともと損も得もないでしょう。
損をしても得をしても、どれに対しても無条件で対処するようにできてる。
そういうふうに活動するようになっとる。
そう考えると生だの死だのっていう問題もなんでもなくなるでしょう。

 

運命なんてものはありませんよ。仏法は運命論ではなく因果論です。
釈尊は人間の考え方からすっかり離れて、生まれた時点まで遡られ、其処で悟られたことは、因果の実体らしいものは何ひとつないじゃないかということだったんです。
作るものも作られるものもない。それが因果です。
因果というのに種がない。因と思われているものも結局は因果関係によってできたんですからね。
縁も結果も主体らしきものはないんです。
縁にふれてただぶつかってすべてのことが次々に回転する。そのようにできておるんです。

 

自分というものが、如何に何も持ち物もない、如何に何も持ち得ない存在であるかということです。
其処に行き着くことです。
持っていないということは、持つ必要がないということですわ。だから、みんなあるんです。
必要なものはすでに持っているということです。実はみんな持っているということなんです。それが「智」です。
知ろうとすることすら必要ないんです。結局、もともと知っておるんですわ。                  』

 

                                                 井上義衍老師談話

 

 


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